岩屋磨崖石塔群を先に進むと、岩屋城主だった高橋紹運の墓があります。天下統一を進めていた豊臣秀吉は、島津義久に戦闘の停止を命じますが、島津は拒否。島津軍は北部九州の大友方の城の攻略を企てます。島津軍来襲は避けられないとみた高橋紹運は、岩屋城で迎え撃つ戦略を立てます。
1586年7月14日、島津の軍勢は4万とも5万とも伝えられる大軍で、四王寺山の山麓から二日市、太宰府、観世音寺一帯を埋め尽くすように陣を敷きました。対する岩屋城の兵力はわずか660余人。決死の覚悟で果敢に防戦にあたります。そして7月27日、14日間の戦いの後、高橋軍は大軍の前に力尽きました。「ながれての 末の世とほく埋もれぬ 名をや岩屋のこけの下水」。紹運の辞世の句です。 |