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小倉城
 洞海湾をはさむ石炭と海運の町・若松と、鉄の町・戸畑をつなぎ、北九州を近代産業都市へ導いた「若戸大橋」。今回は、その繁栄を象徴する同橋の歴史をたどります。
 従来、若松・戸畑間の交通は、若戸渡船によって行われていました。しかし、北九州の近代産業が繁栄するにつれて、より便利な交通手段が求められるように。昭和5年「えびす祭り」の際に渡船が転覆し、一度に70人の人命を亡くすという事故をきっかけに、さらにその要望は高まりました。
 昭和13年、国防上の要請からトンネル計画が立てられましたが、第二次世界大戦により中止。昭和27年、社会情勢の好転に伴い、今度は橋梁案が取り上げられ、昭和30年に当時の建設省による現地調査が始まりました。昭和31年以降は、旧日本道路公団が調査を継続、昭和33年に総事業費51億円をかけて着工。昭和37年9月27日、長年の努力が実を結び、有料道路「若戸大橋」が供用開始となりました。
 全長約2・1km、つり橋部は627・30m、桁下高は大型貨物船の出入にそなえて、満潮面上40mを確保。建設当時は、車道幅員9m、両側に3mの歩道、「東洋一の夢のつり橋」とうたわれました。
 2本の主ケーブルにかかる荷重は約1万トン。直径61mmの太めのケーブル55本と、直径37mmの細めのケーブル6本から構成された61本のケーブルを、さらによりながら束ねて直径約50cmの1本のケーブルに。よるときに麻を織り込み、油をたっぷり染み込ませていたので、44年を経過した今もさびることなく橋を支えています。
「門型クレーン」の
設計者、金子鉄男さん
 橋の開通後、北九州の産業はさらに発展。1日の利用交通量が3万台を超え、交通渋滞をきたしたことから、昭和59年に拡幅工事が決定。昭和59年〜平成2年、歩道を廃止して2車線の車道を4車線に増やす工事が行われました。

 当時、横河工事(株)現場代理人だった、現・(株)ワイ・シー・イー技術部長の金子鉄男さんはこう語ります。「特殊な工事に合わせて設計した門型クレーン(右写真)を使用しました。車道と補剛トラスの間にレールを敷き、移動させながらの作業。古い床版を切り離しながら外し、新しい床版をはめていきました。橋に傾斜があるので、車輪ではなくキャタピラを付けるなど、作業が円滑に行えるよう工夫を凝らしました」。

第3車線を確保しながらの
難しい大工事
 平成17年9月30日に旧日本道路公団から北九州市、さらに平成18年4月1日に北九州市道路公社が引き継いで同橋を管理。同年8月1日には通行料金の値下げが実施されました(軽自動車80円→50円、普通車200円→100円、大型車300円→150円ほか)。

 若戸大橋は、現役のつり橋、そして現在の北九州を築き上げた象徴として、歴史を刻み続けています。
 アメリカ・ニューヨークには、1883年に竣工した中央支間486mのつり橋「ブルックリン橋」がありますが、日本では最古のつり橋。当時の技術を集結して作られています
 当時、同橋周辺は工場から吐き出されるばい煙や汚水で、大気も洞海湾もどんよりとしていたため、人工的景観の中で目立つ色ということで、「カドミウムレッド」という明るい赤色が選ばれました。足場を必要とする危険な作業になるため、毎年少しずつ、10〜15年かけて一通りの塗り替えを行っています。
 当時、同橋周辺は工場から吐き出されるばい煙や汚水で、大気も洞海湾もどんよりとしていたため、人工的景観の中で目立つ色ということで、「カドミウムレッド」という明るい赤色が選ばれました。足場を必要とする危険な作業になるため、毎年少しずつ、10〜15年かけて一通りの塗り替えを行っています。
 北九州港の響灘地区では、国際コンテナターミナルを整備。そのため、同橋では将来的にさらなる交通量の増大が予想されます。そこで、響灘地区と戸畑を結ぶ、新たなルートが計画されました。平成20年代早期の開通を目指し、現在急ピッチで工事が進められています。